うつわ歳時記 これまでの表紙


花のころ


 桜前線が北上して、北陸も花の時節と成りました。魔法にかかったような一ヶ月のはじまりです。桜は、うつくしいですね。数日前の強風に折れてしまった花の枝をテーブルに活けて器も桜尽くしとまいりましょう。「桜折るバカ、梅折らぬバカ」と言いますが、本当にバカな風です。



 手前の、染付け桜文様飯碗にまたもや散らし寿司。市販の蟹の身をほぐしたものをかけて散花散らし、という風情。右側のはなびら小付けに香の物。左の古九谷風色絵深山桜汲み出し茶碗に煮物(ありあわせ)。今回は器の趣向でもって「眼で食べる!」つもりなので、お料理はちょっと、気持ちが入ってないですね。すみません。



 と、いうわけで、その向こう、中央の桜小鉢に筍の煮たの。左側、色絵桜の六角小皿に蚕豆です。



 左側、開扇の薄瑠璃釉金彩手つき鉢に桜餅。おぼろな藍色にうかびあがる金の桜花は夜桜の気分です。奥の染付け桜手付き鉢に、さわらの西京焼き。私は小食なので、お魚を買ってくるとどうしてもあまってしまいます。そこで、残ったのは、白味噌につけて西京焼きだのお醤油につけて幽庵焼きだの麹に漬けたりとか、保存食にします。たまに、食べる勇気の出ない古漬けを発見してしまったりしますけどね。



 それにしても、このところ、強風が吹くかと思えば雨の日が続いて、花にはかわいそうなお天気です。「花に嵐の喩もあるぞ  さよならだけが人生だ」と井伏鱒二の名訳でしられる詩もありました。それでもけなげなものですね。風折れの枝も見事に花を保って、わがやの食卓をはなやがせてくれています。



 桜にまつわる詩歌や絵画工芸は、枚挙にいとまありません。随分いろいろな桜を見てきたつもりですが、若い頃より、今見る花が、美しく見えます。やはり、この後、何度見られるのだろうと言う気持ちが一入あわれさを誘うのでしょうか。あまりにも謳いつくされ、持ち上げられている桜ですが、それでもあきるということがない。モーツァルトもそうですね。それこそ母のお腹の中にいるときから聞いて、ずっと聞き続けて、すっかり憶えこんでいるというのに、ピアノ・コンチェルトの21番なんか、第二楽章に入るところで、今でも必ず泣きますものね。



 最近は、桜でも泣きます。歳のせいなんでしょうか。谷川俊太郎の詩「座る」の中に「美しいものは美しく、醜いものもどこか美しく」という一節があります。谷川俊太郎の詩は好きですが、この詩の納められた「minimal」は特に大好きな詩集です。確かに美しいものは美しい。でも醜いものがどこか美しいように、本当に美しいものには、どこかに醜いところがあるとおもいます。たとえば香水もそうですね、その底に悪臭の成分を秘めてこそ奥行きのある香りになる。美もおぞましさを秘めて、いっそう輝くのではないか。


 桜は、その下に、死体が眠っているからこそいっそう美しい。



瞑りてこの世かの世の花の岸   おるか  


 


2015年4月6日